人の中に生きるということ
別のブログに、昨日「spring day」という曲に込められた思い、について検証する、という投稿をしました。
その曲は、自分は生き残ってしまったけど、その大きな事故で亡くなった友人を忘れようと思うけれど忘れられなくて、葛藤していく中で、彼らのことをずっと覚えている限り彼らは自分たちの中で生き続けるんだ、それに気付いたんだ、という歌。
これを書きながら、誰かの中に生きる、ということを考えていた。
私はこれまでの人生で誰かに何かを相談して決めたことがない。どんな時も一人で考え一人で判断して生きてきた。誰かと共に生きることも誰かの中に生きるということも、いまいちよくわからない。
父が亡くなった後のお葬式か1周忌かなんかで、喪主の挨拶のとき、「人は2回死ぬって言われています。1回目は本当に肉体が亡くなったとき、2回目は、その人のことを覚えている人が誰もいなくなったとき、だから父のことを時々思い出してください、、みたいなことを言った。
「生者必滅 会者定離」 しょうじゃひつめつ えしゃじょうり
生まれ来る者は滅び、出会っても別れる定め
この仏教の教えの底には、生きる者、形あるものは常に変化していく、という意味が含まれているそうだ。亡くなった人は戻ってこない。でも、関わった人やあらゆるものにその人が生きた証は残る。残された人を支え、ともに歩む力になる、ということだそうだ。(今日の朝日新聞のコラムに載ってました。)
桜の花が咲くこの季節、毎年この季節には、実家の近くの米軍住宅跡地の公園で満開の桜の下、家族でワイワイお花見をしたことを思い出す。父はほんとに楽しませてくれる人だった。アイデアいっぱいで頭がよく知識が豊富で、なんでも知っていて優しくてほんとうに大っきい人だった。私が、今偉そうに、誰にも相談したことがない、なんて言っているけど、実はそんな父がいたから、おのずと答えがでていたからかもしれない。
このコロナ禍の世界、私たち現代人がかつて経験したことのない世界。
こんな時だからなのか、感傷的になっているだけなのか、
父が生きていたら、こんな閉塞的な毎日、どんなことを考えついて、明るい毎日を過ごす手立てを教えてくれたのかな、と、この日々を父が生きていたらどう考えただろう、と、
部屋から眺める花が散った後の新緑の桜の木を見ながら、自分の中の父にちょっと話しかけてみた。
篠田桃紅さん
書家、というのか、美術家というのか、
篠田桃紅さんが、1日、101歳で亡くなった、と聞いた
自分のお師匠さん以外で私が唯一尊敬している書道家の方だった
墨象、と言われているが、文字ではなく、墨で線、を書かれる方だ
彼女が書く墨の色は、紙を超えてずっと遠くまで延びていて、
本当に空の果てまで続いているのではないか、と思うほど
のびやかで、果てしなくて、宇宙を感じる
大正時代に旧満州で生まれ、お父上から書を習い、独自で新境地を切り開いた。
若いころは、ニューヨークに住んで、アメリカやヨーロッパでも多くの個展を開き、世界的にも認められた。
いつも和服を着られていて、とってもかっこよかった
大きな筆や、紙が溢れる素敵なアトリエにある大きな硯で墨を磨っているのも素敵だった
極めているように傍からは見えるのに、いつも謙虚で、なにかにこだわる感じもなく、フワフワした生き方をされているように見えた
何度も個展に伺ったし、著書もたくさん持っています。
作品だけでなく、その生き方にも、憧れていました。
ご冥福をお祈りします
love yourself
love yourself 、love myself
大好きな言葉です
作文教室の3年生の生徒さんが書いたこのフレーズ。心に響いてしまったので、お母さんの了承を頂いて、一部載せます。
「人と自分をくらべない。私はわたしでいい。」
こんなことが書ける彼女がほんとに羨ましく、また、こういうことが言えるようなお子さんに育てたご両親にも感動しました。
時代なのかもしれないですが、子供のころから比べられて、競争の中で生きてきました。
私は未だに、(いい年して・・)自分というものがどこにいるのかわかりません。
ほんとの自分がどれなのか、自分を愛するなんていっても、どの自分を愛せばいいのか、
正直なところまだふらふらしています。こんな風に、私はわたしだから、なんて潔く言えたらいいなあ、と単純に感動してしまいました。
彼女の作文はもう長いこと読ませてもらっていますが、時々、はっとさせられる表現に出会うことがあります。文は上手に書くことが大切ではなく、大切なのは、読む人の心に何か小さくても足跡を残すこと、そこには大人とか子供の差はなく、いかにものを感じる心を持っているか、そしてそれをどれほど忠実な言葉で表現できるか、ということだと思っています。彼女の文はいつも小さな輝きを持っているので、私はとても好きです。
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「表現したいことはたくさんあるけれど、それをあらわす言葉を見つけることが難しい。」
最近、ある若いアーティストが作詞をする際に悩んでいることをこう表現していた。
そのために、たくさんのことを経験して、自分の中に多くのことを吸収したい、
と。
まさにそうだと思う。いろいろな経験をして、たくさんの本を読んで、自分の中にたくさんの引き出しをつくること。経験したことを表現することばをたくさん知ること。
そんな経験をたくさんしていってほしい。
失恋のつらさや、大切な人をなくした悲しさ、寂しさ、時と共に過ぎ去っていく時間の喪失感、、そういったものをたくさん経験して、美しい言葉で表現できるようになってほしい。若いころに経験したことは絶対に無駄にならないし、一生の宝物だ。
私とは違って、「私は私だから」という思いとともに大人になった彼女の作文を、いつか読んでみたいな、と思った。
文字の美しさ、とは?
画像ファイルを整理していたら、かわいい写真をみつけました。
伊集院静さんの「文字に美はありや」という本を読み始めたところなのですが、
この職業をしていると、
書家やお坊さんの筆字を持ってきて、これって上手なんですか?、とか
うちの子の字はこれで大丈夫ですか?、とか
よく聞かれます。
そんな時、そもそも、字、というものはなんだったのだろうか、と考えます。
意思を伝えるもの、気持ちを伝えるもの、もちろん事務的な文字もあるけれど、それだって何かを伝えたくて書いているものであるはず。
文字の中には思い、というものが存在していて、そこには、上手とか下手とか、美醜、なんて概念がそもそも存在しないのではないか、と実は思っています。
伊集院さんほどの人はどう考えるんだろう、とたまたま丸善で見つけて買ってきました。こちらの感想はまた別の機会に。
このテヒョンくんの文字をみて、私は単純に、美しい、って思いました。
形的には所謂上手な字、ではないかもしれませんが、母国語でない日本語を、ましてや漢字まで入り、これだけきちんと書くのには、それなりの練習時間と、思いが必要だったはずですよね。
一文字一文字つなげていくと文になる、心を伝えるメッセージになる。愛も伝えられるし、憎しみも、悔しさも、もちろん悲しさも伝えられる。
文字の美しさとは、見た目の均衡の美、ではなく、その中に込められた思いの深さ、強さ、なのではないかと思うのです。
私は子供たちに、上手に書きなさい、と言ったことはないですし、基本的に彼らの書いたものを否定はしません。
ゆっくり丁寧に、そして、心を込めて書いて、と言います。
もちろんそれが絶対ではないですが、思いが相手に思いが伝わる確率は、高いだろう、と思っています。
私は、映画やドラマの作品を書くとき、1枚の作品を仕上げるのに、100枚単位の数、書きます。
なかなか納得いかず、締め切りギリギリに慌てて追加で紙を買いにいくこともあります。
字に思いを込めるのは実はとても難しいです。
「女性の橋本会長」ではなくて
今朝の天声人語、なかなかいい感じだったので、載せます。
最近、コロナのおかげで内向き感に拍車がかかり、ほぼSNSと映像内の韓国の方角ばかり向いて生活していましたが、
その間に、女性のオリンピック大会委員会長(役職名、詳しくはわからない)が誕生したり、大坂なおみちゃんがまたまたセレナを破って決勝に進出したり(やっぱり18年の優勝も実力だったのよね、って一瞬思ったけれど、でも彼女はあのときの出来事(事件??)があったから、余計にこの2年がんばったのかもしれない、とも思えないこともないし、いづれにしてもほんとに彼女はかっこいい。今年は体つきが半端ないよね、どんだけトレーニングしてきたか身体を見るだけでわかる)、日本の動きもなかなかすごいじゃないか、とふと足元を見直して、そう思った。
声高に、フェミニストやジェンダー問題を叫んでいるわけではないけれど、女性が活躍することは素直に嬉しい。
遥か昔、男女雇用機会均等法、などというハイカラな法律(というか、それまで雇用機会が均等ではなかったのか・・怖💦)が成立して、その年に就職活動をした。(歳、ばれる)。当時頑張り屋さんだった私は、日本で初めての女性の総合職を目指してみた。面接官に聞かれることは、「結婚したら、仕事はどうしますか?」「子供ができたら会社は辞めますか?」、「辞めません」、「では、出張先で子供が熱を出したらどうしますか?」・・延々そんなやり取りが続いたことを覚えている。
受かったところもあるし、落ちたところもあるけれど、結局女性ならでは、の職について、バブル期の楽しい生活を送った。
今回のオリンピック会長の件も、世界の目があるから、女性がいいんじゃないか、みたいな発想になっているけど、
ほんとのところ、女性で、とか、男性で、とか
そもそもその発想がなくなればいいと思う。
これも新聞だったかと記憶しているけど、
「交通事故に会ったお父さんと息子が、救急車で病院に運ばれてきました。それを見た救急医が、「え、うちの息子じゃないか!!」と叫んだ」、という話。
落ち、わかりますか?
「女性の橋本さん」、じゃなくて、「めっちゃすごいオリンピアンの橋本さん」とか、「努力の人、橋本さん」とか、そんな表現が当たり前のようになる時代が来るといいな。
GACKTさんの話を聞いて ペットのこと
GACKTさんが、ペットロスになったご友人にご自分の愛犬(何匹か飼っていらっしゃってそのうちの1匹で生後何か月かの子犬だそうです)をプレゼントした、という話を聞きました。
また、ご自身のyoutubeでその様子を流して報告すると、バッシングが多く、それに対して、批判も受けます!!とか言ってらっしゃるそう。
お正月の格付けランキングとかで拝見していて、とても知識、見識豊富で素敵な方だと思っていたし、一時はインスタもフォローさせて頂いていたこともあり、悪いイメージは全くなく、むしろ好感を持っていたほうなんです。だから、なぜ?とう気持ちでいっぱいです。
彼自身をとやかく言うつもりはないのだけれど、
でもやはりこれは彼のお友達に対する愛情表現の「方法選択ミス」だったのでは、と、どうも腑に落ちなく、ここに来た次第です。
そもそも、どなたもご承知のとおり、動物たちは、ものではありません。ペットショップや保護団体から譲渡を受ける際にもそれなりの手続きと意思表示が必要だし、ケーキを人に贈るように、はいどうぞ、というものではありません。
今回は、譲られた方がGACKTさんから譲り受けたと知ると恐縮されるかもしれないので、ワンコをそっと置いてきた(どこに置いたのか、家の中なのかどうか、までは知りません、わざわざ追って調べるのほどのことでもないし、これ以上、本件の情報を更新したくないので・・)というのです。
突然知らない人の家に置いておかれたワンコはどんなに心細かったでしょう。
うちの下の仔は、保護犬としてうちに来て、もう2年も経ちますが、いまでもどんなに優しいお客さんでも怖がって吠えますし、私がトイレに立っただけでもワンワン言います。犬にも感情はありますし、恐怖も喜びも感じます。
辛い思いをして箱の中にいたうちのワンコと違って、GACKTさんのワンコは、きちんとしつけをされ暖かく育てられた子犬ちゃんだったかもしれませんが、そういうことではないはず。
なんか方法が違ったのではないですか、単純にそう思います。
ペットロスの癒し方は、その専門のセラピーさんがいるくらい様々な方法があり、そんなに簡単に、代わりの犬が来たからと言って心の寂しさが癒されるものではありません。
コロナ禍で、在宅時間が増え、ペットを飼うようになった人が増えたと聞きます。
そして、飼ってみて、思ったより大変だと言ってすぐ手放す人も多いと聞きます。
保護犬活動をされている方々がどれほど大変か知っています。
せっかく世の中に影響力のあるGACKTさんのような方なのですから、ましてや愛犬家でいらっしゃるのですから、別の方法、別の主張で、ペットたちを守ってほしかった。
切に思います。
今の山小屋事情 ~燕岳・燕山荘編~
北アルプス燕岳に登ってきました
久しぶりの山小屋泊です
コロナの時代、登山者も減り、山小屋の経営もとても厳しくなっています
山小屋支援プロジェクトもたくさん立ち上がっています
今回お世話になった燕山荘は、数ある山小屋の中でもおしゃれで、おいしいチーズケーキセットなど目玉商品もあって、人気のある山小屋です
実際行ってみて、
コロナ対策、とても留意して実践されていました
安心してゆっくりした時間を過ごさせて頂くことができました
山を愛する人にとって、山小屋は心の支えです
山小屋がなかったら、2000m、3000mの山は登れません
宿泊施設を用意してくださるだけではなく、救護、登山道の整備、、
それはそれは、目に見えないこと、たくさんしてくださっています
早く、また、混雑して、寝返りの打てないようなギュウギュウのベッドが戻ってきますように・・
・・ただ、普段は4人以上のお部屋にたった2人で泊めて頂いたのは、
実は、ちょっと快適でしたけど・・(*´σー`)