マイノリティやヘイト
我が背子は玉にもがもなほととぎす声にあへ貫き手に巻きて行かむ 大伴家持
うら恋し我が背の君はなでしこが花にもがもな朝な朝な見む 大伴池主の返歌
(万葉集から)
大伴池主は大伴家持の部下だったそうですが、公私ともにとても仲が良かったといいます。出張が多くて離ればなれになることが多かったらしいです。
・あなたが玉だったら手に巻いて連れていけるのに、、
(※玉は当時アクセサリーのようなもののことを言うことが多いです、この場合、ブレスレットって感じでしょうか。)
・あなたが花だったら毎朝見られるのに、、
これって、、どう見ても、相手を恋しく思う愛の歌ですよね。
日本の古典文学には、実は、性にとらわれない愛の表現がしばしばみられます。
万葉集だけでなく、日本書紀や伊勢物語、ご存知の源氏物語にもでてきます。
日本の伝統的な民族的宗教の神道をはじめ、仏教や儒教などもそれを否定はしていませんし、歴史上の有名な人物の中にもBLだったと言われている人が多くいます。
いにしえの日本はこのような関係に実は寛容だったんですね。
6月は、LGBTQ、性的マイノリティの権利を考える「プライド月間」。
東京都はやっとLGBTQの差別を禁じる条例を制定しましたが、国レベルでは、まだまだ進んでいません。
人が人として相手を思いやる、愛するという感情は、制限できるものではないし、
人間が存在する以上、誰かを愛おしく思う気持ちは、美しくて尊いもの、当然のことだと思います。
そもそもそのことが、議論や考察のステージに立つことすらが、不自然であるような、そんな世の中が早くくることを心から願います。
ビリーアイリッシュが幼いころのアジア人ヘイト発言に対して、謝罪をしていました。
そもそもその発言は中学生、のころのこと。誰かがそんな劣化した情報をあえて今彼女が世界的な影響力のあるアーティストになったときに公開するんですね。嫌な風潮です。
彼女は、自分が恥ずかしい、とストレートな表現で後悔し、謝っていました。
彼女のヘイト発言は過去のこと、まだ大人の感情も形成されていない子どもの頃のことをあえて今話題にする必要があるのか、と。(肯定しているわけではないです)
反対に、そのことに対して、素直にすぐに世界に向けて謝罪したこと、私はそんな彼女を尊重したいな、と思いました。
人だから、間違うことあるとおもうよ、間違ったことを認めること、反省すること、それが大切なんじゃないのかな、って、思うんですよね。
何度も失言を繰り返し、それに対し、心の伴わない形式だけの謝罪を繰り返す日本政界の老害たちが、なんとも恥ずかしく思えてならないのでした(-_-;)
ビリーアイリッシュは、男性、女性ということを超えて、一個人として存在する自分を見てほしい、と普段言っています。
実は、こんな世代が当然のように存在してきていることを最近感じます。
私の子供たちを見ていても、根本的な考え方がジェンダーレスになっていることは肌感覚でわかります。
性別、国籍、肌の色、、そんなことなにも関係なく、人が人として、相手を大切にして、地球を大切にして、それぞれの価値観を尊重し合える世界が、なんかすぐ近くまできているような気が、なんとなくしています、
生きているうちに、そんな世の中を見たいな、と思っています。
※万葉集の歌についての考察は、朝日新聞の記事を参考にさせていただきました。
※ウイキペディアも参考にしました。
※画像には、特別な意味、ありません・・